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デパケン 哲学

日常・雑記

大神様の減薬指示と、「哲学病」。

数日前の夜の事なんですが、ベランダに設けた喫煙スペースでのんびりとタバコを吸いながら、大神様とお話しをしておりました。

 

こういう事を書くと、「神様とタバコふかしながらって、ちょっと……」みたいに思う方もおられるかも知れませんが、大神様はあまり問題にされません。私の性格上のところもよく分かっていて下さって、何かあると御声掛け頂くのが『ゆるゆるとせい』とか『力を抜け』とか、まぁそんな方向です。タバコも然りで、今の私にとって、タバコをのんびりと吸っている時間、というのは、寝る時と同レベルにリラックスしている状態。ですので、大神様もその際に、色々とお話しして下さる事も多々あるのです。

 

それで、ベランダから部屋に入りまして、まぁ寝るかなぁと思い就寝時の服薬の為に机の引き出しを開けますと、ふと『これは飲んではならん』と、突然の御言葉がありました。対象と指されたのは、デパケン。一般名「バルプロ酸」という、抗てんかん薬の一種です。

このデパケンですが、抗てんかん薬ではあるのですが、躁うつ病の躁状態の予防に効果がある、として処方をされています。結構昔から処方に組み入れられている薬です。用量自体は600mg/dayとそれ程多い訳ではないのですが、それでも長い事飲んでいるお薬ですので、離脱作用を心配しまして、その旨大神様に申し上げると、『ならば1錠のみなら飲んで良い』との御言葉があり、結局3錠⇒1錠、と、精神科医さんからすると「勝手に処方変更するなー!」という様なことをしました。

 

それでその後、Kindleで1冊の本をジャケ買いしました。「大笑い! 精神医学」という本です。マンガ付き、という事で、まぁ少しメンタルの事も読もう的な、普通な気分で買った本なんですが、それがまぁ衝撃的な内容でした。精神科をまさに全否定する内容。しかも、要所要所に(エビデンスとまでは言えない程度ですが)論拠となる話も出ていて、そこそこ信頼性の置ける本、というのが、読後の印象でした。

 

これが、もし「本を読んでから大神様から御言葉」だったら、単に自分の無意識領域で「薬を忌避し始めたのか?」とかも疑うところですが、順序が順序なので、これはまぁある種のお導きなのかなぁ、と納得してしまう次第でした。

デパケンを減量してから ~昔を振り返って~

デパケンの減量効果は、翌々日には現れました。何と言うか、世界が色鮮やか。別に色彩がよく見えるとか言う話では無くて、「ふと『色』が目に入る」というのが、最初の印象でした。ただこれは、躁状態でもそう言う事は起こるので、減薬で躁転したかな、とも感じました。ただ躁転したにしては、元気が無い。躁転すると、今までの元気度とは比べられない程度にアクティブになって、色々やりたくなったりします。勿論それは病的であったりもするので、その躁転の度合いが過ぎると、過活動の様な状態になり「あれもこれも手を付けて、一つとしてやり遂げられない」様な、単に突っ走るだけの状態になるのですが、決してそうでもない。

 

元気がなかなか無いので、行動が活性化されたり、新しい事を何か始める、という事もありません。朝起きて、子供を送り出して、また寝て、適当に起きたら昼ご飯やら何やら、そのうち子供が学校から帰ってきて、宿題させたりして、夕飯になって、寝る。お風呂すっ飛ばし。

身辺衛生、というのは結構「うつ状態」側の指標になる項目で、お風呂に毎日入れている時は、メンタルはいたって順調です。それが、1日飛ばし、2日飛ばし、という状態になると、これは大分うつ寄りに傾いている状態。お風呂に入るだけの気力が湧かないんですよね。「入らなくても死なないし」というのも、多分言い訳としてはあるのだろうと思います。

 

それで、そんな日々だったので、対応が必要なクライアント様に対しても、そもそもPC立ち上げる気力すら沸かせられなかったので、お待たせしてしまいました。その位、結構グッタリモードでした。

そんな「行動面での問題」はあるにしても、感受性は明らかに増しました。いえ、正しくは、「昔に戻りつつあります」。元々私は、大学時代に同人小説作家としてコミケとかに出展していた人間です。コミケですので基本二次創作なんですが、それでも私自身の感受性をフルに活用した、それなりに「読んでもらったら楽しんでもらえる」作品が書けました。当時は本当に感受性は豊かで、色々目に入る物・耳から聞こえるものから、もの凄い「妄想ワールド」が広がったものです。妄想、というと言葉としてネガティブですが、そういう資質が無ければ、そもそも創作活動なんてしません。

 

同人つながりで話を少しすると、その同人のお師匠さんに惚れて、フラれて、そこからが精神科へ突き進んでしまう道になりました。よく、病院を変える時の診断書とかを見るのですが、ハッキリと「失恋を契機に」なんて書かれています。最初に付いた病名は「抑うつ神経症」だったのですが、大学卒業と共に転医して、そこでは「うつ病」と診断されました。しかし、抗うつ剤を使っても効果が芳しくなく、寧ろ行動が突飛化していったりと、現象面で見れば「悪化」していました。そして、宣告されます。「病名変更します。あなたは『躁うつ病』です」と。

 

躁うつ病、と言うと、まだその当時精神疾患についてそれ程詳しくは無かった私からすれば、「三大精神病」と呼ばれている、位の認識しかありませんでした。そしてそれが「不治の病」である事くらいしか知らず。ですので、この診断を受けた時は、正直ショックでしたねぇ……

と共に、この診断名変更から、投薬方針が変わりました。うつ状態になる事は高頻度にあったので抗うつ剤はひとまず継続しつつ、そこに「気分調整剤」というのが追加になりました。リーマス・デパケン・テグレトール、の3剤だったと思います。

 

さてここからがこの章の話なんですが、気分調整剤はある意味「精神の抑制」を図る薬です。メジャートランキライザーほどに鎮静的ではありませんが、それでもクリエイティブな意識とかはガッツリ削られます。

まず第一選択薬となる「リーマス」。炭酸リチウムですが、これはあまり精神が抑制されている主観的感覚はありませんでした。一方「躁状態」の改善にもあまり上手く効いてくれず(第一選択薬なんですけどねぇ)、量ばかりが増えていきました。それで、ある程度の量を超えたら、手がいつも震えてしまう副作用が出るようになりました。これはリーマスでは「あるある」の副作用です。そこまで薬盛っても効果的では無かったので、手が震えない程度にリーマスが減らされ、そこにデパケンが登場します。

 

「デパケン」、いわゆるバルプロ酸ですが、これは明確に、精神活動の上位的な部分をガッツリと削りにきます。具体的には、まず視界・視野が狭まる。実際に「目」に入ってる情報としては変わらない(視力障害を起こす訳では無い)のですが、意識的に「見て、感じる」という部分を削られます。何を見ても心に響かなくなり、感動もしなくなります。言わば「人間らしさ」を削られます。特に創作していて感じたのは、想像力を上下から圧縮される主観的体感。伝えづらいのですが、想像力を働かせた際に、ある程度のところで「天井」があり、「床」がある。それまではそんなの無くて、自由自在に大空を飛び回るが如くに想像力と創造力とを発揮していたのですが、デパケンを入れてから、その辺りが大幅に制限されました。

 

しかしそれでもなお躁状態が改善されないので、更に追撃で「テグレトール」が処方に入りました。これも精神活動を削りましたね、デパケンとの併用だったので尚更、という部分も多かったと思うのですが、とにかく「想像の翼」が開かない。今までですと、何かきっかけがあれば、そこからふと連想したり、着想を得たりして、創造性が駆動していました。その力で、ストーリーに展開を与える想像が出来、キャラクターたちに活き活きとした命を吹き込む事が出来ました。しかし、この「リーマス・デパケン・テグレトール」の3剤処方が固まった頃には、すっかり創造性が失われ、書く事が出来なくなってしまいました。これが約15年前の話です。

 

デパケンは、今では「偏頭痛の予防薬」としても用いられ、それはそれで治療効果はありますが、そもそもが抗てんかん薬という、脳の中での刺激伝達を抑制する方向に働く薬であるが故に、どうしても精神の抑制が掛かります。でも内科医さんや頭痛外来の先生は、きっとこの辺り説明しないんだろうなぁ……と思ってみたりもします。

 

で、デパケンを減量しての今。

まださすがに、なのか、もうさすがに、なのかは分かりませんが、創造性はそこまでアクティブではありません。青春時代の情熱に勝るパワーは無い、とも思うので、あの当時ほどに活性化する事はさすがに難しいのかも知れないとは思います。

ですが、幸いな事に、「色が」という話で実感しましたが、とにかく外界から入ってくる情報に対して、自分の心が、想像力が、しっかり反応を返してくれる様になったのです。これは大きな進展だったと思います。

 

元に戻ると生じる病「哲学病」

哲学病、は私の造語です。まぁ誰かも使ってるかも知れないですけどね、普通な言葉ではあるので。

元々私は、「市井の哲学者」になりたかった人間です。大学に入って哲学を研究して……という、「哲学を研究する人」では無くて、その辺りに座っていて、何か意見を求められたら、ズラズラと話をする、と言うような。ソクラテス的な人生、と言ったら伝わるでしょうか、ああいう生き方に憧れを抱いていました。

 

ここでは細かくは言いませんが、とにかく「考える事が好き」な人間です。大学時代、B5ノート27冊を細かい文字で埋め尽くして、「結局主観はカメラであり、そのカメラは人の数だけ存在する。カメラのフィルターも違えばそのカメラの性能も違う。となれば、世界、というものは完全に、それぞれの個人が見ている『だけ』であり、完全に一致する『世界』という共通概念はあり得ない。主観が絶対なんだ」という、『主観絶対主義』と名付けたところまで、自分の頭だけで練り上げました。

こういうと、「そんなの哲学者の○○がもう言ってるよ」というツッコミが入るとは思います。私自身も、この『主観絶対主義』を発見した際には、「私ですらこの様に辿り着ける結論であるのだから、先人の哲学者であれば、誰かが既にそう言ってるに違いない」という意識もまたありました。そして勿論、そういう主張は既に哲学の中に存在しています。

 

ただ私にとって大切だったのは、そのプロセスです。主観絶対主義を発見した際の宣言である上のカギ括弧の中に「カメラ」という表現がありますが、これは私自身が小説作家として、世界を眺める際に「視点」というものを意識せざるを得ない状況にあったからです。そして、小説ノウハウ本にはもれなく記載がありますが、この「視点・カメラ」の問題は、小説のスタイルやら伝えたい事・伝わる限界などを決定づける、かなり重要なバックグラウンド要素です。

その「カメラ」の考えから、考えをどんどん深化させていき、気付いたら27冊になっていた、というのが私の実感です。苦労した、という意識はありません。外からの刺激に対して、私の中に自然と生まれてくるのです、様々な事への「疑問」というのは。

 

哲学。と言っても、今の社会「死とは」「存在とは」「神とは」なんて言っても、全然刺さりません。まぁ哲学者肌の方には刺さるかも知れませんが、それだと同好会が関の山です。

食べていけない。ビジネスモデルとして成り立たない。今は「パトロン」が居る様な時代では無いですからね……というのが、これまでの感覚でした。

 

ただ今は、若い頃と比べて、もう少し幅広く、かつ野心的です。「パトロン」を、誰か一人に求める、というビジネスモデルだと、コンサルの様な職種にはなるものの、考える事・思索する事、というただそれだけでは、コンサルになりません。相手方の悩みや問題点を指摘できたり、解決策を提示出来るだけの力が必要です。またそもそもマトモに職歴が無い私ですし、専門分野『スピリチュアル』という人間なので、一般的なビジネスパーソンやら経営者層に対して、効果的と感じてもらえるコンサルを提供出来るか、という点に立つと、少々困難を感じます。

もっとも、例えば「法人向けスピリチュアルサービス」なんてのも、もう少し時代が変わってくれば有り得るかもとは思っています。スピリチュアルが現実に働く事、かつそれが、単に個人の「ちょっとした願い事が叶う」という次元を越えて、対企業戦、対国外戦となる様な市場との戦いであっても、任意に、そしてピンポイントで(広範囲、も出来ますが、ピンポイントを突く方が得意です)「相手を落としたり」「こっちを上げたり」出来るので、企業業績にも寄与できるであろう事が認知されれば、スピリチュアリストが企業のお抱えになる事も有り得ます。ですが現在の日本では、スピリチュアルにしろ占いにしろ、あくまで「個人のお楽しみ」的な世間的認識であるので、まだ時代としても難しい、と思っています。

 

因みに、企業とのセッションとなると、私の「契約費」が経費として落とせるかどうか、というのは、企業にとって非常に大切です。

しかし恐らくですが、税務署は私のサービス内容を見て、「これは駄目」とか言うのではないかと思います。なかなか難しいですね。

 

さて本題に戻りますが、ビジネスモデルとして「1人のパトロン」という古代ギリシアの考えがダメならば、では「サロン」の様なものにして、単価を落として、多数の方々を相手にすれば良いのでは、などとも考えています。勿論それが実際に支持されてビジネスモデルとして確立出来るかどうかは、正直やってみなければ分かりません。ただでさえ情報過多が酷い現代社会ですから、『思索家』が色々考えて述べる長々しい言説を「読んでる暇もない」「取り入れる余地など無い」という事になれば、当然どういう枠組みでサービス提供しようが、ニーズが無い訳ですからビジネスモデルとしては失敗です。ですが、今はネットのお陰で、サロンを興す、というのも初期費用をほぼ掛けずに行う事が出来ます。手数料を支払う代わりに、集客を代理してくれるサロン運営サービスもあります、DMMサロンとか。

 

まぁどういうプロセスを経るかは分かりませんが、そのうち「哲学」も何処かでコンテンツ化する可能性もあります。月額課金のメンバー制サロン、みたいなのが一番しっくり来るんですけれどね。問題は私の思索の仕方に、それ程のファンが付いてくれるのかどうか。ウダウダしてますからね、自分で見ても。

快刀乱麻な感じのを求められても、それは私とは方向性も違えば、スキル・性質的にも無理です。寧ろ、細かい事を積み上げていって、その上で俯瞰し、そこに不都合があればまた細かい所を見て修正して俯瞰し……構造主義的ではありますが、私の思索の仕方はそういう感じです。構造主義自体が「古い!」と突っ込まれそうな思索法ですので、新しい意識を求める方も、私とは合わないかも知れません。制限が多いですが、これがもしビジネスモデルとして成立させられれば、私としてはこれほど「生きやすい」世界はありません。何せ、考える事は私の『常』であり、その『常』がお金を稼ぐ源泉になる、というのなら、切磋琢磨は勿論必要ではありますが、基本の部分が方向性として定まっているので、楽しく出来る、というものです。

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