プロフィール

初めまして、または、いつもお世話になっております、かも知れません。よしおかとうじです。

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ブログを2016年8月29日にリフレッシュしまして、それに伴いプロフィールも刷新することに致しました。

今まではアフィリエイターとしての顔が割とメインでしたが、現在ではライトワーカーとして、また別の顔が出てきましたので、その辺りを更に増強した、今までのプロフィールよりもしっかりと書いていきたいと思います。長くなると思いますが、お付き合い頂けますと幸いです。

 

「よしおかとうじ」とは? どこの人? 何歳?

私、「よしおかとうじ」は、ビジネスネームです。本名ではありません。実家との折り合いの関係で、ライトワーカーとして活動していくに辺り、ギリギリの調整でこのように「ビジネスネームでの活動オンリー」となりました。特商法等の記載では実名も出していますが、住所に関しては法律が許容しているので、私のヴァーチャルオフィスを住所としています、こちらは東京です。

現実の私は、東海地方に住んでおります。現在は便利になったもので、何処に住んでいようが稼げる情報は入ってきますし、それこそスマホ1台で稼ぎをドーンと上げる方も多数おられます。以前私が所属していたアフィリエイトの塾でも、そこはメインはメルマガだったんですが、やはりPC1台でもって何処ででも稼げるよ、という人がリアルにたくさんいらっしゃいました。

私のパーソナル・プロフィールとしては、2017年2月現在で37歳になります。こう書くと、しみじみ「年を取ったなぁ」と思います。

身長・体重。別に要らないよって感じの情報ですが、肥満体です。激デブではないですけれど、BMIで30を超えているので、デブには間違いないです。冬場になると運動を始めて、段々暑くなってきたり、また後述する病気・障害の状態でもって運動が中断されたりもするので、一時84kgまで落とした体重が、今や94kg。正月を挟んだり、夏休み家族旅行を挟んだりして、ジグザグと体重増です。今年は新年のだらだらモードが行きすぎてしまい、そのまま「汗かきすぎて体調崩す」夏が来てしまって運動不可能になり、それで94kgですよ。参りますね。

そんな困った私は、妻と共にジムのドアを叩くことになります。まぁこの辺りは個別の記事で色々書きたいと思いますが、激安のパーソナルトレーニングジムがあり、妻は「短期集中コース」という、一括96,000円の2ヶ月コースを選択。RIZAPなんかと比べると非常に安いですが、コーチはしっかりしているので、現在結構効果が出てきています。今は寧ろ筋肉を付けていく段階なので体重はそれ程下がりませんが、筋肉量が上がったのは嬉しい限りです。

 

そんなよしおかとうじですが、このビジネスネームが誕生したのは、実は比較的新しいです。2015年の9月に、私は新たに「よしおかとうじ」を名乗って活動をするようになりました。

因みにそれまでは「とりさん」でした。鴨が好きです。見るのも食べるのも。それでそこから「とりさん」。よく人から、「とりさんさん、ですか、それともとりさんですか」と言われていましたが、当時はメルマガも発行していた手前、途中で名前を変えるのも現実的では無くて、結局かなり長い間「とりさん」としての活動が続きました。

 

「とりさん」の終焉は、パトカーのサイレンと共に

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長きに渡る「とりさん」としての活動が実質終わったのは、妻が体調を酷く持ち崩した時です。

「何故パトカー? 救急車じゃ無いの?」と思われるかも知れません。パトカーなんです。

 

私と妻と。二人とも揃って、躁うつ病という病気・障害を持っています。躁うつ病と言えば病気ですし、双極性感情障害と言えば障害になります。取りあえず双極性感情障害の名前で話を進めますが、妻は双極性感情障害Ⅰ型、私はⅡ型と、タイプが違います。

タイプが違うと、障害の状態も随分違うものになります。Ⅱ型の私は、典型的なうつ病だと診断され続け、ある日を境に躁うつ病だと「発見・診断」されて今日の日に至る、という流れです。Ⅱ型は基本的に「うつ系の人」で、しょっちゅううつ状態になり、滅多に躁状態にはなりません。何年に一度、という単位の周期性の人もいれば、一生涯に一度だけ躁状態を発症する、というような場合も、これもやはり一応躁うつ病として扱われます。

で、妻はⅠ型。こちらは主に躁状態が出やすいです。もちろん「躁うつ」病なのでうつ状態に入ることもありますが、妻の場合そのうつ状態すら『仮面うつ病』の状態となり、主に身体の不調が主訴としてどんどん出てくるので、妻が精神的にうつ状態を呈している場面、というのはかなり限られます。当然躁状態がとても出やすいタイプなので、治療・疾病管理には抗うつ剤は使わず、主に感情調整剤の類と、メジャートランキライザーが使われます。因みに、感情調整剤の一番有名なのは、炭酸リチウム。リチウムイオン電池に使う、あのリチウムが使われます。微量金属で、それなりに有害性もあり、量が多すぎると手が震える等の副作用が出ます。もちろん度外視する程多ければ、死に至る事もあります。

 

そのⅠ型の妻が、躁状態の発作を起こしたのが2015年1月。お正月の諸行事を一通り終えて、子供が楽しみにしていたトッキュウジャーのショーを名古屋ドームまで見に行って、その翌々日に激烈な躁転を起こした状態で帰省し、帰省先で更に躁状態を悪化させ、お守り代わりに持たせておいた薬を全部飲んでしまい、半錯乱状態となって、救急車を呼ぶ事態になりました。

で、救急車が来た、と。そこに至るまでも細かい問答はあったんですが(ご近所さんの手前、救急車は……みたいな)、色々言葉を掛けても全然通じず、どうにも収集が付かないので、ともかく呼んでもらいまして、救急車は来たんですが……そこで初めて知ったんですけれど、救急隊員は「確保」が出来ないんですね、暴れる人を。躁状態で錯乱しつつ大暴れしていましたから(この時の力たるや、本当に女性の力とは思えない恐ろしいものがありました)、まずは取り押さえないとどうしようも無いんですが、それは警察の方で無いと出来ないです、と救急隊員さん。もーこうなったら救急でも警察でも何でもいいからとにかく取り押さえないと危ない。道に裸で突っ走って飛び出しそうになったりしてましたからね。薬の、結果的ではあるものの濫用の恐ろしさを、よく味わうことになりました。

 

それで、パトカーが来て。さすが警察の方はこういう修羅場にも慣れておられて、4人掛かりで妻を制圧掛けました。4人の手足でフルに制圧掛けないと動きを封じられないという究極の躁・錯乱状態というのは、妻と結婚してから初めて体験しましたので(妻自身は数度その程度の経験があります)、かなりうろたえたのを覚えています。

そのまま警察署に本人はパトカーに載っていき、私と、義理のお父さんも、警察署に来るよう言われ、警察署へ。本人は「保護房」と言われる場所にいるらしく面会等は一切出来ず、市の職員さんやらドクターやらに、都合4回、どういう経緯で今回の事が起こったのか、また結婚後はどういう病状でどうであったかを、相手変わって主変わらずでもって、同じ説明をしました。本人の錯乱状態と躁状態は両方とも酷く、措置入院が決定しました。

※措置入院とは
精神科指定医2名が診断をし、自傷他害の恐れがあり、かつ緊急性を要する場合に発動される、強制入院措置のこと。

この、措置入院確定時点では、まだ妻の捕り物劇の興奮冷めやらぬ感じでしたので、疲れ等は感じませんでした。寧ろその後の、通院がストレスになっていきました。

 

妻に落ち度はないんだが……病院がどうしても遠い件

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措置入院先の病院は、実は私と妻が閉鎖病棟の中で出会った、ある意味記念的な病院でした。後で聞いた話なんですが、妻は移送先病院の選択肢を2つ与えられ、敢えて色々良い思い出も悪い思い出もあるはずの、その病院に決めたそうです。

それで、妻が入院生活を始めた、と。精神科閉鎖病棟のルール、というのが色々ありまして、まずは例えば、紐付きの服とかシューズはダメだとか、刃物類やガラスは一切ダメだとか。要するに、自殺されたり誰かを傷つけたりする恐れのある物が持ち込み禁止になるのがグランドルール。その上で、病状に合わせて「何をして良いか/いけないか」が決まってきます。妻の場合、入院タイプの中でも一番重篤・緊急な『措置入院』でしたので、即効【保護室】という所に入れられました。

 

保護室は、まさに何も無い部屋。翌日だか翌々日に最初のお見舞いに行った際に、鉄格子の向こうにいる妻と、布団以外何も無いがらーんとした室内に、あーこりゃ静養するにしても退屈だろうなぁ、とは思いました。勿論異常ステータスになってしまっているからこそ、そういう特別な部屋に「監禁」されなければ行けないのですけれど、それにしても何の刺激も無い。と、思ったんです。その時は。

後で妻に聞いてみると、かなり幻覚が見えていたようで、青いダルマが上の方で踊っているとか、そういうちょっと変わった幻覚に悩まされていたようです(因みにダルマが青いのは、東北・仙台ではある意味常識で、そこにちょっとしたゆかりがある私と妻なので、普通の色なんです)。そりゃまぁ、ベゲタミンA錠を、ほぼ1日の間で10錠(1ヒート)飲めば、どんな異常が起こってもおかしくないです。幸い、呼吸停止などの身体的クリティカルなものは無かったのですが、どうもベゲAに入っているバルビツールにせん妄反応が出てしまったようで、幻覚が出た模様でした。因みに妻は、通常の睡眠薬等であるベンゾジアゼピン系も、せん妄が出るので使えません。今現在で使えるのは、抗ヒスタミン剤の系統(市販薬:ドリエル)か、新発の睡眠薬ベルソムラかの2択になります。

 

で、その病院。県を超えて移送出来る訳ではないので、妻の実家の県でもっての入院です。因みに隣県なんですが、市の単位で行くと、3つほどまたがないと行けないので、結構遠いです。その遠さがあだになりました。

妻は、三日正月のうちは状態も落ち着いていたんですが、4-5日辺りに一気に躁状態を呈するようになり、6日にドカン。それから毎日とまでは行きませんが、週3くらいで隣県まで車で移動です。幸い仕事という仕事を持たない身の上ですので、その辺り自由が効くのは良かったのですが、寧ろそれもあだになって、病棟から頻繁に呼び出しがありました。当然「○○して下さい」という『指示』に背けるだけの、しっかりとした断る理由も無いので、行かざるを得ません。まぁ愛する妻の様子をしばしば見に行ける、と言う面では安心感はありましたが、最初の2~3週間程度は、とにかくアレ持ってこいアレ買ってこいと、病棟がうるさいのなんのって。しかも解せないことに、病衣の契約をしているのに、何故か「厚手のトレーナーのような物を買ってきて下さい」とか。当然全館完全温度管理されてますし、当時まだ保護室の中ということで、当然寒い外に出ることなど全く出来ない状況です。

なのに、病棟は色々言ってきます。そりゃショーツとかそういう、ある意味消耗品的な物は分かるんですけれど、トレーナー買ってこい、ズボン買ってこい、の、あの2件のオーダーだけは、意味不明です、今でも。

 

病院は、車で結構飛ばしても、1.5時間掛かります。しかも途中の道は、ひたすら真っ直ぐで信号も何も無いバイパス道路。とてつもなく暇で、疲れている身にとっては、「キツい眠気」との戦いを強いられる厳しいものでした。

当時、アンナカ(安息香酸ナトリウムカフェイン:要するに、カフェインです)を1日限度量の倍使って、何とか意識を保ちつつ、自爆事故を起こしそうになりながら、結構頑張りました! 自分で自分を褒めたいです、よく頑張ったねって。面会に行くと、妻はあれこれ言いますが喜んでくれてはいたので、それが救いになって、頑張れたというのが実際の所でした。

 

そもそも、私よしおかとうじは、どういう生き方をしてきたのか?

高校こそ進学校とまでは言えない、マンモス男子高だったんですが、そこでひたすら勉強を頑張って、愛知県民に「だけ」特別視される旧帝大、名古屋大学の法学部に推薦入学しました。そこまでは良かったんです。

当時の自分は、ノストラダムスの大予言の「1999年7の月」というのを、結構信じていました。地球破滅するか人類滅亡するかはともかくとして、何かデカい変化が起こるんだろう、と。だからそれをまたぐ事になる大学生活、それ程頑張っても意味ないじゃん、と思い、大学に対してそこまで真剣ではありませんでした。ただ、親との約束で、司法試験を目指す方向性ではいたので、ともかくまだ専門科目が始まらない大学1年生の更に前、高校3年の10月頃から、民法の基本書を読み始めていました。基本書、というのは、一番ベーシックになるとされる書物で、取りあえず専門書です。専門書ではあるのですが、入門書としての機能も持っているので、高校生であっても読めば理解出来る内容になっていました。

因みに、大学受験のための勉強時間。高校1年生の夏休みには、1日13時間をMAXとして、大体10時間オーバーのペースで勉強していました。Z会をやっていたので、解くべき問題には事欠かなかったですし、親も資金面で応援してくれたので、当時特に英語に関しては、ほぼ全ての参考書やドリルを制覇していました。数学は苦手だったので白チャートから入り、黄チャート・青チャートまでが限界でしたね。赤は無理。今でもチャート式ってあるのかな、学習参考書コーナーなんてもう20年近く行ってませんから、今の時代とは話が違うかも知れないですね。

 

で。大学生活。フツーに楽しく過ごそうと思えば、サークルに所属してなんたら、飲み会がなんたらとか、そういう楽しみ方が出来たものだと思います。ただ私は、司法試験というロックが掛かっていたので、サークルなどには一切参加せず、ひたすら勉強に打ち込んでいました。図書館が巨大で、自習スペースにも昼寝スペースにもなる万能な場所だったので(当時はまだ珍しかったPCも2台、フリーで使えましたし)、そこでひたすら勉強していました。もちろん講義には出ますけれど、それ以外の時間や講義後の時間など、かなり勉強に傾けていました。

 

そんなある日。というか、1999年7の月がほんとーに何も無く終わって、あれーこれからどうやって生きていけばいいのー、となってしまったその時に、友人からゲームをもらいました。もうクリアしたからイラね、というので頂いたのが「こみっくパーティー」というゲーム。現実世界で言う『コミケ』、正式名称コミックマーケットですが、アレを模したゲームです。セガサターンだったかな、それにも移植されたPCゲームで、一応エロゲーに分類されます。エロシーン無しで全然大丈夫なほどにしっかり作り込まれていたゲームだったので、とてものめり込みました。

 

その時。私の頭の中で、大爆発が起こりました。

私も「作り手」に回りたい、と。

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そこからですね、勉強が一切手に付かなくなったのは。もう自分の中で、物語を作る事が楽しくなってしまって、丁度よく言う中二病の再来というか。自分が唯一取れた「媒体」と言うのが小説だったんですが(絵はからっきしダメなものでマンガは描けませんでした)、元々その中2の頃にも、小説書いてたんです、日刊で。連載という感じで、まぁストーリー自体は途切れ途切れなんですが、登場人物を全てクラスメートによく似せて、名前はそのままで「(仮名)」と付けて、日記体で書く、という当時の能力を考えれば「よくやれたもんだなぁ」と思えるほどの事をしていました。

 

なので、小説を書くこと自体は、自分にとってはかなり自然なことであって、そしてコミケという場に出て自分も作り手として活動できる、という『目標』を掲げて、頑張りましたね。

 

で、そんな折。まだ最初のイベントデビューもしておらず、第1作目(「こみっくパーティー」の2次創作です)を書いている最中に、中学の同窓会がありました。その場で、中学生の当時はあまり親交が無かった女子だったんですが、当時の現在進行形で、そういった2次創作をやっている、しかもマンガで、という同級生がいました。思わず質問攻めにしてしまいましたね(苦笑)。何せ、どう参加すれば良いのかすらよく分かっていなかった上に、さて原稿が出来上がったらどうするのか、というのも、当時は情報が少なくて困っていました。渡りに船の如く、意気投合して、1週間後のイベントでその女性と再会しました。以降Fさんと呼びます。

 

Fさんは、当時少年ジャンプで連載されていた「封神演義」の2次創作をされていました。まぁ、女性が封神演義を描くとなると当然の如くにボーイズラブになる訳ですが、結局見せてはくれませんでしたね、作品は。代わりに、まだ自分の書きかけ原稿、当時は「キーボード付きパームトップ」モバイルギアというのを原稿作成に使っていて、それを手渡して読んでもらいました。結構原稿自体は進んでいたので、しばらくモバイルギアを預けて、自分のジャンルのブースをブラブラと。しばらくして、戻って、感想を聞きました。

 

「面白いよ、これ」

 

と、その瞬間でした。私の頭に、突然雷が、ドカーンと落ちました。膝はガクガクと震え、目は焦点が合わず、ともかく立っているのがやっと、という状態になり、Fさんに「大丈夫?」と言われつつも、ともかく何とか持ちこたえて、深呼吸などして落ち着こうとしてみて。胸のドキドキは凄いものがあり、その上で、ショック状態から解放されると、今度はいわゆる多幸感が全身を満たしました。当時まだ童貞でしたので比べられませんでしたが、今比べれば、男女の交わりなんて目じゃないほどの快感と刺激、というのが一度に押し寄せた感覚です。

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そしてついでに現れてしまったのが、いわゆる吊り橋効果です。

その瞬間、私はFさんに恋に落ちました。自分の作品を、最初に「面白い」と言ってくれた……その一言だけで、恋に落ちたのです。

 

で、まぁ結果しばらくしてフラれるのですが(苦笑)。そしてその失恋が元で電車に長時間は乗れなくなり、大学の単位も1限目の物が取れずに留年して、結局5年掛けての大学卒業になりました。

うつ状態が「厳しくなった」のは、その失恋の後からです。

 

厳しく? 元々うつ状態はあったの?

という話になりますよね。ありました、うつ状態。しかも周期性のあるうつ状態です。

高校生の当時、男子校という事もあり、女子との接点は全くありませんでした。勿論男子校だからと言って全員が全員女子との接点が無い訳ではないですが、自学自習で塾にも通っていなかった自分は、家と学校の往復だけだったので、全く女性関係の出会いとかはありませんでした。それがコンプレックスになり、バレンタインデーのある2月をコアとして、3ヶ月周期でうつ状態になる、というのを繰り返していました。当時は「うつ」と言う概念も無かったのですが、とにかく自分が悲しくて、女子にこれから先も誰にも相手にされないような気がして、とにかく泣きました。夜な夜な、枕に突っ伏して声を殺して泣いていました。今考えれば、抑うつ神経症程度にはなっていただろうと思います。

 

それで、私は自分に言い聞かせていたんです。大学になれば、自由だ。女子もいる。絶対恋愛できるんだ、と。

けれどそんな希望的観測は物の見事に外れ、周りは男子ばかり。更に司法試験仲間も男子がメインだったので、全然女子との会話等も無ければ出会いもありません。そこにFさん登場、そして失恋。これが決定打となって、本格的なうつ状態を呈するようになりました。

 

周期性のあるうつ状態というのは、躁うつ病の基本的なフレーズです。普通、単発のうつ病の場合には、日中変動と言って、その1日の中で調子が良い時間と悪い時間、というのがあるのが定番です。大体の方は、朝がダメで夕方以降少し楽になる、と言うパターンです。私の場合は、そういったパターンもなく、突発的に泣きそうになったりするのがメインで、当時は「自分の心が弱いのと、神様が見放してるんだ……」と、捉えていました。恋愛するための努力、ということ自体を知らない男子校育ちの男子ですから(中学は共学でしたけれど)、恋愛ってある時突発的に発生するものだろう的な、変な意識があったんですね。当然現実はそんな訳はなく、Fさんにフラれて初めて、恋愛によるダメージってこんなにデカいんだ、と言うことを知ることになりました。えぇ、それまで彼女いませんでしたから、ずっと。

 

それで、余りにうつ状態が辛いので、当時はまだ敷居の高かった精神科でしたが、勇気を持ってその扉を叩きました。そこで言われたのが

 

「君は健康。敢えて病名を付けるなら、抑うつ神経症」

 

健康って、こんなに突発的に泣けたりしたり、電車乗ると吐き気でダウンしたりしても健康?? と、じゃ何故病名が付くんですか、と聞くと、病名無いとお薬出せないでしょ、と。

 

今の私だったら、その場でドクターに食らいついているような事を平気で言うドクターだったのですが、即日診察してもらえるというメリット(当時から既に、精神科・心療内科の初診は3ヶ月待ち等、当たり前でしたから)は捨てられず、しばらく名古屋のクリニックに掛かっていました。大学卒業と同時に、地元の、でもやっぱり偏見が怖いので隣接市の心療内科に通うと、開口一番「あなたはうつ病です」と言われまして、それでやたら安堵した覚えがあります。治るんだ、と。しかし、抗うつ剤を中心にした治療をしても不安定さはなかなか取れず、そうこうしているうちに、何だか金遣いが荒くなってきたりして、どうも変だ、と言うことをドクターに相談したら、

 

「主病名を変更します。あなたは躁うつ病です」

 

と、告知されました。当時の知識でも、躁うつ病は統合失調症・てんかんに並ぶ3大精神疾患だ、というのは知っていたので、これは相当堪えました。

もう治らんのじゃん。死のう。そんな勢いでしたが、そこは投薬方針の変更が功を奏して、希死念慮はある程度消退してくれました。

 

しかし、躁状態の方が制御出来ず、これまで貯めてきたお金を全部パチンコやらなにやらに費やす浪費行動に走り、最後には無職で何も保証も無いのに消費者金融に手を出して、60万借りた所で親がクリニックを突撃し、「先生、あなたはうちの子に対して責任が取れますか」と問い詰めたら、「それは出来ません」といきなり弱腰なドクターを見て、借金まで作った、トラブルも起こしているという事で、家族による強制的な入院をさせられる事になりました。その病院こそが、妻が措置入院で入った病院だったのです。

入院。そして地獄の施設へ。

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絶望の中での入院。最初に防火扉が病棟の入口になっているのを見て、あぁ、もう人生終わったわ、と思いました。

けれど、中に入ってみると、以外とフツーな感じでフツーな人がいる。というか、むしろフレンドリー。ちょっと拍子抜けしました。

 

そこで出会ったのが、今の妻となる女性です。当時から「猫さん」と呼んでいたんですが、その猫さんとCDを交換したりとか、色々楽しくおしゃべりしたり麻雀したりとか、まぁ色々、閉鎖病棟の中で出来る楽しみをたっぷり堪能しました。閉鎖病棟に「いられる期限」というのが、MAX3ヶ月と決まっているので、先にいた猫さんは、先に出ていきました。その時には、無性に悲しい思いだったのを覚えています。ただその翌日、やたらどぎつい化粧をした猫さんが、病院に来てこちらに手を振ってくれて、というのはありました。病棟内は化粧禁止でしたので、久しぶりの化粧と言うこともあって、アレになったんでしょうね。ホントに「モデルかっ」とツッコミたくなる程に濃い化粧をしてましたので。

 

その後、私も退院し、親の方針で「援護寮」と呼ばれる施設に入所しました。今では名称が変わって「精神障害者生活訓練施設」と言うそうですが、実体は今も昔も変わりません。

 

そこは、病院内を遙かに超える『地獄』でした。誰かが叫んでいるのは日常茶飯事、それを精神保健福祉士、通常ワーカーさんと言いますが、その方が服薬のさせ方、無理矢理口に薬をねじ込んで、個室に叩き込んでしまう。そういうのが当たり前になっている施設でした。いつの時代も、弱者とされる人が入る施設の「運営側」というのは酷いものです。

ただ私の場合、司法試験には結局通れませんでしたが、それなりにロジカルシンキングが出来る状態にまでは回復しての退院でしたので、そういった乱暴なワーカーさんを、言葉でコテンパンにしてしまう事が出来ました。一番荒っぽいというか、若くて偉そうにしている「調子に乗ってる」ワーカーさんがいて、他の入寮者の方も結構その方から被害を受けていたのですが(パワハラ・モラハラ当たり前でした)、私は一通りハラスメントを受けると、そこに対して罪名と刑法何条、と言うのをサッと言って、その上で「あなたの言動は」から始まる、終わらない説教をしました。

ワーカーさん、見事に大泣きして管理室に逃げ込みましたね。追撃も掛けたんですが、管理室の端で泣き崩れていて、寮長さんに「やりすぎ」と止められたので、まぁその場はそこで終えました。

それ以来、そのワーカーさんはある程度他の入寮者さんたちにも優しくなって、まぁ皆さんハッピーかな、という状況を作れましたね。

 

でも、寮の住環境は酷いものでした。3畳1間の個室なんですが、チェストと小型冷蔵庫があって、実質使えるのは2.5畳。一応押し入れがあるので、そこは物入れとして使って荷物を2.5畳のスペースから排除しても、やっぱり3畳1間の個室は圧迫感が半端ないです。寝ていると、天井が迫ってくる感覚を何度覚え、何度苦しんだことか。

しかし、地獄の後には、天国が待っているもののようです。

猫さんとの再会、そして。

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結局、その施設で1年と1ヶ月暮らしまして、希死念慮と被害妄想とでもう死ぬ寸前まで行っていたので、自分から希望して入院することにしました。

そしたら、またいたんです、猫さんが。余りの偶然に、ちょっと小躍りしてしまったほどです。この頃には既に、猫さんを女性として意識はしていましたので、胸キュンというか。ただ、病棟内で恋愛に発展することは無かったです。「私も病人、あなたも病人」。そんな意識が強くて、女性として見てはいても、それ以上に発展させたいとは思っていませんでした。

 

それから数ヶ月。再度退院して、ようやく自宅に戻れるかと思いきやレオパレスに叩き込まれるという、なかなかこれもハードな展開だったんですが、取りあえず入院から通院へとシフトしました。ちょうど頓服薬が切れて、土曜日に予定外の診察に出掛けた時に、外来待合で、猫さんとまたも再会。それからあれやこれやと話は進んで、二人でカレーを食べに行くことになりました。そしたら、猫さんの歩んできた人生が実に面白くて、もう首ったけになってしまいました。

 

そこからどうなってそうなったか、細かい流れは覚えていないんですが、男女の関係になりました。告白どうこうより先に、身体です。当時いわゆる素人童貞でしたから、普通の女性と肌を交えるのは初めてで。腰が振れず、腕で身体を支えるのがとても難しい事だと言うことを初めて気付かされることになりました(苦笑)。

しばらくそんな、身体中心の関係が続いて、でもお弁当を互いに作ってデートなどもして関係が深くなっても、ふと行き着くところは「結局障害者同士なんだよなぁ」という事。当時猫さんは既に障害者手帳2級・障害基礎年金2級を取得していましたし、私も手帳3級・障害基礎年金申請中、という身でしたので、うーん、この関係続けて良いものか、とかなり悩み、その末に別れを切り出しました。最後になるはずのデートの時、猫さんが真っ黒な装いで現れたのには驚きました。普段もっとカラフルな感じだったので、黒、というのが特別な意味があるんだろうなぁ、というのは薄々理解しました。

 

でも、やっぱり身体で繋がってる関係って、切りがたいんですよね(苦笑)。私も当時は性欲超旺盛な男子だったので、やはり切るに切れない。それでも後悔とかは無かったです、関係の継続に。これからどうなってくんだろう、という漠然とした感じは持っていましたが。

まぁそれからあれよあれよと話は進んで、結婚しました。出来婚とかでは無く、先に籍を入れて、後で挙式を挙げるパターンでした。

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で、今。

妻との間に、もう7歳にもなる子供がいます、男子です。ねちこい性格が私と合わず、息子からのラブコールに一切応えない父親してますが、まぁ何とか回っていくものですね。

先だっての正月措置入院の時には、主に二人での生活となり、まぁ実家のヘルプもあって何とか乗り切りましたけれど、男子だけになると何故か関係は良好になるという不思議な関係性です。妻がそこにいると、絶対反りが合わない状態になるんですけれど。不思議なものです。

 

結婚後、8年間お世話になった病院も後にして、車で7分くらいの地元のクリニックに掛かっています。措置入院の時に思ったんです。

「どんなかかりつけ病院があっても、爆発したら結局当番病院だから、意味ないわ」

と。幸い、2015年の爆発以来、妻は非常に安定してくれていて、目立ったトラブルはありません。

ライトワーカーとしての私「よしおかとうじ」

で、いきなり話が変わって恐縮ですが、ライトワーカーになったのは、2015年9月。ココナラでの活動がスタートでした。

元々は、ライトワーカーになるつもりも、なれる予定も無かったんです。上に書いた妻の入院時に、ストレスからたくさんヒーリングを受けていた事があり、その流れで1件アチューメントを受けまして。因みにアチューメントというのは「伝授」なんて訳されますが、エネルギーを扱える側に回るものです。私は専ら最近は「エネルギーの仕入れ」と呼んでいますが。

 

それで、ココナラで「クンダリーニレイキ」というのをアチューメントしてもらったんです、妻の入院中に。自己利用が目的でした。

ただ、やっぱり手に入れると使ってみたくなるものでして(笑)。妻が入院しているところ(その時点で妻は保護室からは出られて、他の患者さんとも交流がある状態でした)に、「こういうのあるんだけど、誰か被験者的になってくれる人いない?」みたいな問いかけをして、とある方が第1号の被験者になってくれました。そこでのフィードバックが結構良い感じだったので、調子に乗った、というのが事の真相だったりします。

 

そこからは、流れは速かったですね。当時ココナラでは無償でワークを提供していたのですが、ある日突然売上が上がっていて。単に設定した無料枠をいつの間にか消費しきってしまった、というのが事実だったんですが、そこで初めて「有料でも売れるんだ」という実感を持ったのです。ココナラは、無償で出すと本当に飛ぶようにサービスが売れるんですが、有償だと(ランク無し出品者は)とても売りづらい環境でした。なので、その初めの1件が、まさにブレイクスルーになってくれて、今の自分がある、と言っても過言ではありません。

 

今でも、ワーク提供はココナラがメインですね。独自サイトも持ってはいますけれど。ヒーリング専門のヒーリングストアと、アチューメント専門のアチューメントストアをそれぞれ構えています。アフィリエイター時代の資産を利用して、銀行振込だけでなくクレジットカードにも対応しているのがちょっとした優位点だと自分では思っています。実際、独自サイトの方では、クレカ利用の方が8割を超えるので、ここはやっぱり大切なセールスポイントなのかな、と。

 

因みに先日、ココナラでの売上が120万円を超えました。

30%が手数料で持って行かれるマーケットであるココナラで、これだけ伸びしろが出たのは、まさに私の実力などでは無く、運気とエネルギーとが味方してくれているからに他ならないと思っています。いやー……ホントにたくさんのエネルギーワークをアチューメント受けていますからね。中にはアチューメントフィーが、モニター価格でも6万円する、というものもありました。国常立さまの金運エネルギー、というもので、私のサイドからモニターとして出せる枠も全て完売してしまったので、今は正規価格の30万円という突飛な価格になっています。一応分割払いのメニューも用意はしていますが、まだ正規価格での受注はありません。

まぁ当然でしょうけれどね……多くの、この国常立さまの金運エネルギーをアチューメント出来る方々が、未だにモニター枠を残しています。私は「より運気を上げる方法」や「更に人が集まる小物」とか、色々な手段を持っていますから、5名様のモニター枠が早期に、かつ比較的簡単に埋まってしまいましたが、普通のヒーラーさんが6万円の支払いをして頂く、これって相当難しいです。この辺り、昔やってたアフィリエイターとして「どうオファーすれば良いのか」というのを理解している人間だ、というのも、強みになっているとは思います。

終わりに

色々自由に書かせて頂きました。総合計13,000文字らしいです、Wordpressのカウンターを見ると。

これだけ長いプロフィールを読んで下さったあなたに、心から感謝をすると共に、これからもこのブログを「どうぞよろしくお願いします。」と申し上げ、このプロフィールの終わりとしたいと思います。

 

本当に長いプロフィールの読了、お疲れさまでした! そして、ありがとうございました!m(__)m

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